赤馬

今から300年ほど前のことです。琉球・八重山の宮良村に、
大城師番という一人のまずしい役人が住んでいました。

ある日、師番が用事で島の西側にある名倉村へ出かけたとき、
後ろ足を怪我した子馬が浜辺をさまよっていました。

子馬の毛は、普通の赤馬の毛よりもっと赤く、
ベンガラをまぶしたような色をしていました。

師番が呼ぶと、逃げもせずに、すぐに走ってきました。
そして、あまえるように師番の体に何度も鼻づらを摺り寄せてくるのでした。

自分の子を亡くしている師番は、
「ここで会ったのも、何かのめぐり合わせに違いない。もしかすると、この子馬は死んだわが子の生まれ変わりかもしれない。」と思い、
四里の山道を子馬を連れて我が家に帰りました。

それからというもの、師番は、その子馬をわが子のようにかわいがりながら育てました。

何年かのうちには、子馬はすくすくと育ち、珍しい赤毛にも磨きがかかり、ますます美しくなっていきました。
村の人たちもこんなすばらしい毛色の馬は見たことも聞いたこともないと、驚きました。
そしていつしか、師番の馬を『赤馬』(あかんま)と呼ぶようになりました。

しかし、村人たちには、もっと驚くことがありました。

赤馬には主人の心が、すべてわかるようなのです。
やがて、そのうわさは琉球王国・尚貞王まで届き、馬を献上せよという命令が下されました。

師番は泣く泣く、馬を連れて、はるばる八重山から首里までやってきました。
早速、尚貞王は、うわさ通りの美しい赤馬に満足し、乗ってみることにしました。
しかし、赤馬は、声を掛けようと、鞭を打たれようと、いっこうにいうことを聞きません。
それどころか、暴れ出して、尚貞王を振り落とそうとしました。

怒った王は、「なにが名馬だ!こんな馬殺してしまえ!」と家来に怒鳴りました。
それを聞いた、馬役人は驚いて、師番を呼び寄せました。
師番が近づいてくると、今まで暴れていた馬はすぐにおとなしくなり、師番を乗せると、すばらしい速さで、王城の馬場を縦横無尽に走りまわりました。

人馬一体となって走るその姿は、まるで強弓からはなたれた一本の赤い矢が行き交うようでした。

それを見た王は、「よくぞ、ここまで育てたものだ。親にはぐれた子馬を救い、本当の愛情をもって育てれば、師番の赤馬のように心を読み、主につくす名馬となるものだ。」と言って、師番に褒美を取らせ、八重山に帰るようにいいました。

ところが、このことで、赤馬の話はますます有名になり、遠く九州の薩摩の殿様から馬を差し出すよう命令がきました。

師番は身を切られる思いで赤馬を薩摩の殿様に献上することにし、島の港まで見送りに行きました。
しかし、船が出ると途端に天気が変わり、大嵐が船を襲いました。

赤馬は甲板につながれていましたが、船が傾き始めると、綱を切って海に飛び込みました。
船は、まもなく横倒しになって、暗い波間に消えていきました。

赤馬は、雷の光に島を見定めると、力の限り泳いで、なんとか島までたどり着くと、休むことなく師番のいる宮良村まで走りだしました。

力強く地をけって、だんだんと近づいてくるその蹄の音が、まぎれもない愛馬のものであることに気づくと、師番は家を飛び出しました。
師番はうれしさにかられ、愛馬を抱き寄せようとしましたが、赤馬はもう疲れきっていました。
師番の顔をだまって見つめると、静かに目を閉じて、崩れるように倒れていきました。

こうして、赤馬は息をひきとったのです。

赤馬が琉球王国に召されたときと、琉球王国から褒美をもらって帰るときに作った師番の歌は「赤馬節」として、八重山を代表する民謡の一つに数えられるようになりました。
そして今でも、おめでたいよろこびの歌として、祝いの席で、まず最初にこの歌が歌われるのです。