桃林寺 十王図(地獄極楽絵図)

南海山桃林寺では、毎年旧暦の7月7日(七夕)に十王図を展示して一般壇信徒に公開することは戦前からの恒例になっており、毎年公開されております。

ここに、十王図の説明書を記しますので、ご参考に供してください。

十王図説明書

明治24年八重山島宮良間切頭、宮良当宗氏寄贈になっておりまして書画人は那覇字西の友寄某となっています。

  • 第一図 不動明王  秦廣王
  • 第二図 釈迦如来  弘法王
  • 第三図 文珠菩薩  宗帝王
  • 第四図 普賢菩薩  五官王
  • 第五図 地蔵菩薩  閻魔大王
  • 第六図 弥勒菩薩  変成王
  • 第七図 薬師如来  泰山王
  • 第八図 観世音菩薩  平等王
  • 第九図 大勢至菩薩  都市王
  • 第十図 阿弥陀如来  五道転輪王

我々凡夫は最後の息を引きとり人間としての世縁尽きて臨終の両眼を閉ぢいよいよ冥途へ向うとすると其の時三人の青鬼赤鬼共が冥土から迎えに参ります。そうして、我が魂を迎えとり先づ泰皇王の王庁へ到着します。此の時初めて己が罪業しかも生前、心にたくらんだ罪業は一つ残らず前後にまつわりついて此の身を離れずおくれたるものは悲しみの涙にむせび、先だつものは悩みの憂いに身の正体もありません。
やがて無常の嵐が吹いて罪門の関樹を洗うや吹き落とされる葉はことごとく剣と化して亡者の身を貫きます。その匁の身に立つ数の多少によって業の浅深を知られることです。
三年目には五道転輪王のいます王庁へいたります転輪王は如何にもして亡者を助け取らせんとの御慈悲から、しばらく亡者を助け取らせんとの御慈悲から、しばらく亡者をここに留め倶生神をして亡者の故郷を検査せしめられます。
然るにありし日の故郷の男女どもは亡者の事などとくに忘れ果てて気にもかけず、頼みに思う子や孫を見るに、徒らに罪を重ねて亡者を弔う様子とてもありません。このとき亡者は娑婆に残したる妻子をうらみ、己の罪報を悔いて黄色の涙を流し血の汗を洗い流すといわれます。
若しこの時を期してその罪業を滅しないならば遂に地獄におちて熱鉄に身を焦がし寒氷に身を砕いて完水熱火の底に再び人身に生を期せんことを萬却にも得難いということであります。

冬図絵の説明

◎二七日目には初江王(弘法王)の王庁にいたります。手前に脱衣鬼が控えて亡者の衣を脱がせ衣領樹という木の枝にかけます。その枝の高低によって罪の軽重が定まる。慚愧の衣のないものは身の皮をはぎとられその苦しみは忍ぶべくもありません。

◎三七日目には宗帝王の王庁に着きます王は亡者の名を記しその住所を録して彼方の黄泉の岸へ引き渡します。其の間に三途の川が流れています。引路の牛頭は鉄棒をもって道を教えて催行の馬頭は鉄の匁をもって流れを示します。

◎四七日目には五官王の王庁へと着きます。空には生前の行いを量る秤りが備えられて亡者の軽重をただします。
地には配下の鬼共が控えてその業の多少を記入します。

◎五七日目からは閻魔大王の王庁に引き据えられます。そして大王の責苦を受けることになります。まづ亡者のその顔を浄瑠璃の業鏡に向かって映し出された自分の姿には過去に犯した罪業のほどが一つ残らずありありと浮かび出ます。

◎六七日目、七七日目には大山王の王庁に至りますかくしても亡者の罪業定まらぬ事とて遺族の追善供養を待つこと頻りである。

◎百ヶ日目には平等王の王庁へ至り、手かせ足かせに責め立てられ亡者はいよいよ苦悩を増していくのみであります。

◎一周忌には都市王のいます王庁へと至ります。断罪を待つ亡者霊集して、さながら市のようであります.。

以上


  • 桃林寺表門

  • 重要文化財(美術-彫刻)

桃林寺仁王像 ニ艇

元文二年(西紀1737年)文明氏久手堅仁屋昌忠の作。補佐役や上官氏川平仁屋正肖及び松茂氏小濱仁屋當明の両人。用材は八重山産材ドシヌ(おがたまの木)である。
本像は戦前斯道の権威鎌倉芳太郎氏及び伊東忠太博士によってその芸術的価値を斯界に紹介された。
像は向かって右は密迹力士、左は金剛力士である。
一、所在地 石垣市字石垣285番地 桃林寺山門
一、文化財指定 1956年2月22日
一、管理者 桃林寺
財団法人八重山観光協会