赤馬節


今回は「赤馬節」を紹介いたします。この唄は別名「いらさにしゃー」とも言われています。「いらさにしゃー」とは方言で「あー、うれしい」という意味で、心から嬉しさが込み上げてきて、地に足が着かず、宙に体が浮いて飛び上がりそうな位の心境を表現する島言葉です。

「赤馬節」は、宮良村の役人、大城師番(おおしろ しばん)が18世紀初めに作詞作曲したものだと言われています。

彼は寛文十一年(1671年)生まれ、80歳になる寛政三年(1750年)まで生き延びた、当時としてはかなり長寿の方でした。

彼の父は大城目差師忠で、役人の第二子として生まれ、元禄十一年(1698年)に若文子(わかてくぐ)役になり、正徳二年(1702年)には白保村の目差(めざし)になり、享保六年(1721年)には筑登之座敷(ちくどぅんざしき)にまで昇進しています。

師番が若文子であった頃の元禄十二年(1699年)に石垣島の裏石垣地区あり現在の吉原部落に仲筋という村が創建されました。師番は仲筋村の倉庫係を命じられました。

琉球王府の出先機関であった蔵元政庁(今の海邦銀行から東側一帯にあった)は人頭税時代の米石輸送上、労力の経済を考えて、川平湾の南東部に位置する仲筋村に倉庫を新設し、裏石垣地区の各村々の人頭税をそこに貯蔵し、公用船である馬艦船(まーらんせん)にすぐに積み込めるようにしたと言われています。

師番は、その大事な倉庫を管理する大役を任せられたのです。

元禄十五年(1702年)に倉庫係の師番が勤めを終えて仲筋村から帰宅する時の事です。今でこそ於茂登トンネルがありますから、裏石垣地区には市街地からは直ぐ行けますが、当時は西回りか東回りでしか行けませんでした。

師番は自分の家のある宮良村まで西回りで帰って行きました。崎枝を通り、名蔵湾沿いを通り、観音堂の辺りからずっと東へ行き、蔵元政庁により、宮良まで帰ったと推測できます。
その帰路の途中で、名蔵湾の北方シーラ原に差しかかった時に南の方の海から1頭の仔馬が上陸してくるのが見えたのです。

師番が不思議に思い、じっと見ているとその仔馬は近寄ってきて、彼の傍に立ち止まりました。辺りを見渡してもその仔馬の主らしい人はいません。彼が歩くと馬もついて歩き、彼が止まると仔馬も止まりました。余りにも馴れ馴れしいので、傍に行くと頭を彼の体に擦り付けてきて甘える仕草までしたと言われています。

師番はその時古老の伝承を思い出しました。「大海から上陸してくる馬を竜馬(極めて優れた駿馬)または神馬(しんめ、かみうま)と称し、足取りの達者な馬がいた。」と言う言葉を。この馬も竜馬の一種かと思い、その立派な立髪や胴体を改めて見直し撫でてみると尚一層馴れ馴れしく彼に反応してきました。
師番が嬉しくなって、引き連れて家路につくと世にも霊妙な足取りで駆けたと言われています。
彼は驚嘆し、帰宅しました。

では、何故そのようは立派な仔馬が海から上陸したのでしょうか?これが史実なら、考えられることとして、中国大陸からの貿易船が石垣島近海で座礁した為に中にいた馬が泳いで石垣島の海岸に上陸するようなことが何度かあったのだと思われます。

師番は自分の子供のように深い愛情を注ぎその仔馬を育てました。仔馬は実に堂々とした大型の気品の高い立派な名馬アカンマー(赤毛の馬)に成長しました。その姿の素晴らしさばかりでなく、足の速さも群を抜いていました。その頃は白保村の目差役になっていた師番の乗用馬となっていた為、赤馬の名声は八重山中に知れ渡る事になってしまいました。

やがて、その評判は首里の琉球王府の国王、尚貞王(1669~1709年)の耳にも届くようになりました。国王の乗る御料馬の飼育・調教を担当する馬見利役が二人早速八重山に派遣されました。国王の命令は至上命令ですから、背く事などできるわけがなく、師番は赤馬を馬見利役の前に連れていきました。
彼らは赤馬を見るなり、「こんな素晴らしい馬はまだ見たことがない。これこそ国王様の御料馬にふさわしい馬だ。」喜び合い、師番に「きっと国王様もお喜びになり、表彰されるはずだ。」と伝えました。

師番の心は重くなりました。でも、「我が赤馬は国王様の御料馬に出世し、自分も育ての親として名誉なことになるだろう。」と自らに言い聞かせて、諦める覚悟を決めました。師番は悲しい心を取り直し、村人達を集め、赤馬の晴れの門出を祝って、赤馬送別の宴を催しました。

そして、その席上で赤馬の栄誉を讃え、はなむけの言葉を即興の歌にして歌い、舞ったと言われています。それが「赤馬節(その一)」です。

赤馬節(その一)

no.
原歌
訳)
1.
赤馬ぬ いらすざ
足四ちゃぬ どぅきにゃく 
赤馬の、ああ 羨ましいことよ。
赤馬の冥加なことよ
2.
生りる甲斐 赤馬
産でぃる甲斐 足四ちゃ
生まれ甲斐ある 赤馬よ
育てる甲斐のある 赤馬よ
3.
沖縄主に 望まれ
主ぬ前に 見のうされ
琉球国王に望まれ
琉球藩主のお召馬になった

では、上記の唄を解説します。

まずは、歌詞一番ですが、「いらすざ」と言う島言葉は、「いら」と「すざ」に分かれます。「いら」は感嘆詞で「ああ」「おー」「おや」「あら」などを表す言葉です。

「すざ」は「すつちぃあ」「すつちぃゃら」とも言い、「羨ましい」と言う意味の言葉です。
「足四ちゃ」は古語で馬の異名にあたります。脚が四本あるから、赤馬と同義語の対句になっているわけです。

琉球の古い歌集「おもろそうし」には、馬の異名として、「みちや」「はやみや(駿馬)」「つまぐろ(蹄黒)」「あしよちゃ(足四)」などが記載されています。

次に、「どぅきにゃく」という島言葉です。「どぅき」は、今でも八重山方言で使われている「どぅぐ(意外の、過分の、度を越した)」と同じ意味です。

「にゃく」は「にやふ」に転訛した言い方で、「果報、冥加」を意味するようになっています。
以上の言葉の意味を踏まえて、解釈すると「(我が子のように育ててきた)赤馬よ!(国王様の御料馬となるお前は)ああ、何と羨ましい事か。(名馬として認められた)足四ちゃ(赤馬)よ!何と冥加な事であろう。」というようになると思います。

歌詞二番、三番は語意から割りと容易に解釈できると思います。「(国王様の馬になるとは)生まれる甲斐がある赤馬よ。産まれさせ、育てる甲斐のある足四ちゃ(赤馬)よ。」「琉球国王に望まれて、その御料馬になるんだね。琉球藩主(琉球国王と同義)のお召馬となるんだね。」と意味がとれるでしょう。

だが、首里城に着いた赤馬は馬見利役の調教を受けず、毎日暴れまくり手がつけられなくなってしまいました。余りにも暴れるので、荒綱でぐるぐる巻きに縛られ、ろくに草や水も与えられない惨めな状態になってしまいました。尚貞王は、替え玉の悪い馬を献上されたのではないかと怒るようにもなりました。早速取り調べろと命令されたので、飛船が遣わされ、師番は首里城へ出向くことになりました。

取調官によっていろいろ問われた師番は、「決して替え玉ではありません。また、決して悪い馬でもありません。」と毅然とした態度で応えました。「それでは、今すぐ乗って見せよ」と命令が下されました。
師番は赤馬が縛られている厩に案内されました。師番が近づくと赤馬は直ぐに気づき、縛られたまま高くいななき、前脚をパカパカ掻き再会を喜んでいるように見えました。師番は「赤馬よ!この姿はどうしたことか」と言いつつ荒綱を解き、その首に抱きつきしばし再会の涙にむせびました。

師番が赤馬の手綱をとって、広場に現れると、みんなの視線が一斉に集中しました。尚貞王に一礼してから、師番は「赤馬よ!頼むぞ」と声をかけると、赤馬は四つ脚を折って地面に腹ばいになりました。師番が乗ると赤馬は静かに立ち上がり、姿勢を正しくして手綱を引くと赤馬は悠然と歩き出しました。その姿は堂々として大きく逞しく、その眼は生き生きとして鋭く光り、そのふさふさとした鬣や赤毛は輝くばかりでありました。人々は仰ぎ見て、歓声の上げました。
赤馬はひづめの音も軽く、見事な脚さばきで場内を並駆けで一周し、最後に大駆に移りました。
師番は自分の両膝で馬の腹をしっかりと抱き、手綱を締めて一声鋭い気合を入れました。
赤馬は猛然と大地をけって砂塵を巻き起こし、疾風のように驚くべき速さで走り出しました。まさに人馬一体いうにふさわしい光景となりました。赤馬の神秘的な駿足と師番の卓越した妙技が場内を圧倒しました。

やがて師番は馬をとめて降りました。

尚貞王は師番を呼び寄せ、「師番よ!見事であった。こんな珍しい馬はこれまで見た事がない。赤馬を自分のものにしようとしたことが誤りだった。この馬は他の人には乗れる馬ではないようだから、お前に返すことにしよう。本当に名馬の名に恥じない馬だから、永く大事に可愛がるように。また、お前の役職も位を上げて与人に昇任することを許そう。そして「高徳」の扁額を授けよう。」と仰せられました。

師番の感激は筆舌に尽くしがたいものでありました。

尚貞王が赤馬を見事に育てた秘訣を聞くと、師番は「一度も鞭をあてたことがないこと、我が子のように真心を込めて愛し教えてきたこと、そのため、自分の気持ちがこの馬に通じ、馬は自分の気持ちをよくわかるようになった。」と申し上げました。真実の愛情は、人と動物の隔てを乗り越えて、見事に花開くことを王様をはじめ場内の人々皆は思い知らされました。

死を覚悟して来た師番は、尚貞王の温情ある計らいに万感あふれ涙にむせびつつ立ち上がり、声量も豊かに即興の唄を歌い、かつ舞ったと言われています。まさに地に足が着かずに飛び上がりたい位の至福の喜びだったと思われます。その時の唄が赤馬節(そのニ)です。

赤馬節(そのニ)

no.
原歌
訳)
1.
いらさにしゃー
(イラサニシャー)
今日ぬ日
(キュウヌヒヌ)
どぅきさにしゃ
(ドゥキサニシャー)
黄金日
(クガニヒ)
ああ よろこばしい

今日の日よ

とてもうれしい

黄金の日よ
2.
ばんしぃでぃる
(バンシィディル)
今日だら
(キュウダラ)
羽生いる
(ハニムイル)
たきだら
(タキダラ)
私は生まれかわった位

嬉しい今日の日よ

羽が生えて飛び立つ位

うれしいよ
3.
今日祝しゆらば
(キュウヨハイシユラバ)
あちや ふくい
(アチャー フクイ)
しゆらば
(シユラバ)
今日を祝い

明日も祝い

続けましょう

では、その二の唄を詳しく見て行きます。

歌詞の一番の「いら」は「ああ、本当に」など感嘆を表す島言葉です。
「さにしゃ」は「うれしい、喜ばしい」を意味します。「どぅき」は「どぅぐ」と同じで「過度に、過分に」を表します。
「どぅきさにしゃ」は「嬉しさがあり余るぐらい、本当にうれしい」となります。
「黄金日(くがにひ)」は「黄金のように輝かしく光り輝いている素晴らしい日」となります。最愛の馬、赤馬を返され、王様からもお褒めの言葉をいただき、この上なく誉れ高く嬉しい日を「黄金の日」と例えているわけです。

歌詞の二番の「ばん」は「ばぬ」とも言い、「自分、私」を表す島言葉です。
「しぃでぃる」は「生まれる、生まれ変わる」を表す島言葉です。「王様にこのように認められ、誉れ高くなったこの私は本当に生まれ変わったようである。心から嬉しく、羽が生えて飛んで行きたいぐらいの気持ちである。」と解釈できるでしょう。

歌詞の三番。「今日のこの喜びを祝い続け、明日も祝い続けよう。」と容易に解釈できると思います。

このようにして赤馬を引き連れ、八重山に無事に戻ってきました。しかし、それから一年程すぎたある日、突然武士が二、三人の者を従えて、宮良村の師番の家を訪れて来ました。赤馬の評判は島津藩(今の鹿児島)の殿様の耳にも届いていたのです。赤馬献上の令達書が在番頭へ届いていたのです。蔵元政庁の係りのものが島津藩の武士と一緒にやってきたのです。

島津藩主への献上とあれば、光栄この上ない誉れであるが、琉球国王へ献上した際にも暴れて手に負えない状態になり、返還されただけに蔵元政庁に再三再四思い止まるようにお願いしましたが、聞き入れてもらえませんでした。と言うのも、島津藩からの公用船が平久保半島に停泊していたのです。在番は赤馬を公用船に積み込むことを命じました。

赤馬にとって一難去って、また一難が来てしまったのです。公用船は献上馬を乗せて出帆しました。しかし、途中神風と豪雨が強まり、公用船は辛うじて遭難を免れ、平久保へ吹き戻されてきました。暴れる赤馬を陸揚げして、しばらく風雨の静まるの待たざるをえなくなりました。

数日後、天候が回復したので、再び赤馬を乗せ公用船は出帆しました。ところが、前回と同様にまた天候が急変して暴風雨となり、船体を分解するが如く揺らし始めました。この時です。赤馬は手綱を噛み切り、満身の力を振り絞り丈夫な柵を破り、荒波の中に身を投げたのです。

間もなく猛り狂う暗闇の海面に浮いた赤馬は、首を上げて方向を定めると懸命に泳ぎ、岸に辿り着きました。陸に上がると風雨の中を一路自分の愛する主のいる宮良へと走り続けました。

平久保半島を縦断し、明け方近くに懐かしい宮良の我が家の門の前についに立ちました。さすがの赤馬も今は精魂尽き果てて悲しげに一声いななくと最後の力を振り絞り、家の周囲をゆっくりと廻り、家の裏で崩れるように倒れ息絶えてしまいました。

 師番は公職を退いた後も宮良村に住み、「赤馬大王」または「高徳の人」として仰がれました。彼は寛延三年(1750年)1月27日に80歳の高齢を持って亡くなりました。

彼が作った「赤馬ぬいらすざ」に始まる一連の詩句と同じく「いらさにしゃ今日の日」に始まる一連の詩句はその後これを合わせて「赤馬節」と呼び、広く人々に愛唱されるようになりました。現在でも目出度い唄として、祝い事や喜びの行事の冒頭を飾って歌われ、かつ舞われています。

特に、その荘重な曲は八重山民謡を代表するものの一つになっています。

この赤馬物語は「宮良村誌」に記されたものであり、宮良で語り伝えられたものであります。300年も昔のことであり、現在では部分的に諸説があります。しかし、大筋は一致しており、口碑伝説として今も語り伝えられています。

実は、「赤馬節」は、その三とその四もあります。詳しく知りたい方は、喜舎場英旬著「八重山の民謡誌」を参照していただきたい。

概略すると、その一は、師番が赤馬と離別の時の唄であり、その二は、師番が首里城内で、国王をはじめ多くの役人の前で赤馬の霊妙な足取り示し、名馬の折り紙をつけられ、赤馬を返還された喜びを歌ったものであります。

その三は、公用船の沖縄の一路の平安を歌い、その四は、諸祝賀の唄で、国王の幸福と庶民の繁栄、豊年を迎えた喜びを歌っています。

現在では、「赤馬節」と言えば、「その二」の「いらさにしゃ・・・・」だけを歌っている人が大多数を占めています。また、古典民謡として継承されているのも「その二」です。

さて、読者のみなさん!如何だったでしょうか? 私は石垣生まれの石垣育ちですから、「赤馬節」を祝宴の席など聞いたり、その舞踊を見ると嬉しさや喜びが感じられ主催者と気持ちが共有できます。まだその域に達していない人は今一度大城師番の気持ちを思い出してこの歌を何度も歌ったり、聴いたりしていると、いつかきっと祝宴の時にじわじわ喜びを噛み締めることが出来るようになるでしょう。