四カ字豊年祭

旧暦の六月、八重山の各島々では豊年祭が行われる。
五穀豊穣を神に感謝するとともに来夏世(くなつゆ)の豊作、地域住民の健康祈願をする祭りである。
郡内最大の豊年祭である、
四カ字の豊年祭(新川字会が長崎御嶽、石垣字会が宮鳥御嶽、大川字会が大石垣御嶽、登野城字会が天川御嶽)は
一日目に今年の収穫に感謝した儀礼のオンプールが各地区御嶽で行われ、
神事を司る女性によって神願いやさまざまな芸能が奉納される。
二日目は新川にある真乙姥御嶽(マイツバオン)に集まり、
各字・団体の旗頭が奉納され、太鼓や巻踊り、
綱引やツナヌミンなどの奉納芸能がにぎやかに行われる。

五穀の種子授けの儀

アヒャーマ綱

旗頭

新川:矢頭

東から五穀の神、西から真乙姥の神があらわれ「五穀の種子授けの儀」が終わると、
神事から授かったカヌチ棒を雄雌の綱に差込、女性だけの綱曳「アヒャーマ綱」が行われ、 「サー、サー」の掛け声の響く中、女性達がガーリー(歓喜の踊り)を披露。
興奮と熱狂に包まれる。

日が西に傾き、松明が灯されると、東から長刀(ナギナタ)、西から鎌(カマ)を持った武者が現れ、 勇壮なツナヌミンを演じる。豊年祭、最大の見せ場である。
フィナーレは、観客も参加しての大綱曳。
東西に綱を引き合い豊年祭は幕を閉じる。

四カ字の豊年祭が何時の頃から始められたのか、正確な記録がないため曖昧ではあるが、 真乙姥御嶽で繰り広げられる村プールは、明治26(1893)年に八重山を訪れた笹森儀助の「南島探検」に 「午後五時、四カ村ノ豊年祭ヲ新川村真乙姥社前ニ教員一向ト見物ス。
毎村各ニ個ノ山ヲ具(かつぎ)出シ、台上ニ仮面人ヲ乗セ、天神ヨリ五穀ヲ賜フニ擬ス。古式風韻ノ高雅ナル一見欽望ニ堪へタリ。
其他鎌躍、鍬躍、綱引等アリ。 小男女對(そろい)ノ衣服、白赤ノ鉢巻、太鼓ドラノ囃子総テ古風ナリ。」と記されている。

また、石垣四カ村(四カ字)の『旗頭本』の記述を総合的に検討すると真乙姥御嶽及びその周辺で繰り広げられる村プール(豊年祭)に関する 記述は明治32(1899)年に確認されている。

それから18年後の大正6年8月5日付け「先島新聞」では「去る七月三十一日四個の新川御嶽の前で穂利祭(豊年祭)を行った。
そして此日余興の綱引があるので処々から老弱男女が蟻の様にでかけて御嶽の前は人の山を築いた。

午后三時頃になると西の方から旗頭が見えた。
さうすると今迄暑さにだれてた見物人が俄かに生気をしやじ騒ぎ出した。見れば行列の真っ先に新川乙女が 揃いの紺絣に紅白の布で捲頭をし手に采配を持ち呉将軍の女兵みたいだ。
夫れに続いて杵、鎌、鍬などを持った青年が立縞のそろひに白捲頭をし勇ましくやって来て一同御嶽の前に整列し 乙女の采配踊りとマキ踊りが始まる。

其唄が節面白く優に床しく感じた。其おどりが済むと東西ニ道から翁媼が台に乗て其儘(そのまま)媼が翁に五穀を貢式を行って退く。
と同時にエイヤーヤッショイの懸声がかかると必ず乙女が綱引を済まし直ちに其綱を四方約一丁位いある処に持ち行くと 胴揚げをする。

「蝶仙」が第一番に揚げられ其外ハイカつた物を選び片っ端から揚げられた。
其次に武装をした者が二人来て薙刀と鎌との立合をした後、青年の網引となった。流石血気旺盛の者許りだから如何にも勇壮て 活気踊るが如くで二回とも西方の勝利であったけれどもホンノ形式ばかりで真剣の勝負でないから何となく物足りない心地がした。

是より四カ字の旗頭が勃然と動き出し青春の男女打混りヤツショイヤッショイの声も勇ましく緒処を練り廻はり夜に入って 目出度所謂るお祭りさわぎが終わりを告げたのである」と記されている。

記事中の「新川御嶽」は「真乙姥御嶽」、「穂利祭(豊年祭)」との記されているところから 「プーリィ(現在:プール)」と当時は発音していたことがわかる。
記事の内容から、現在の「豊年祭祝典並びに旗頭・巻踊り奉納(奉納願)・五穀の種子授けの儀」「アヒャーマ綱」「ツナヌミン」「大綱曳」と 繰り広げられているのとほぼ変わらず展開されていたことがわかる。

旗頭は鮮やかにはためき竿が長く、デザインも豊かである。
各字が持ち寄った奉納物のひとつで、男達が力を振り絞って旗をかこみながら持ち歩く姿は勇ましい。
村々の祈りが込められたさまざまな旗文字にも注目してほしい。

請福(ふくをこう) 福の世を請い願う
祈豊(いのるゆたか) 豊穣を祈る
天恵豊(てんけいゆたか) 天の神々の恵みが豊かさをもたらし、来夏世の豊作を祈る
祈豊穣(いのるほうじょう) 穀物がたくさん実るよう祈る
瑞雲(ずいうん) 恵みの雨をもたらし、豊穣を祈る
五風十雨(ごふうじゅうう) 者を潤し育てる恵みの雨に感謝
豊潤(ほうじゅん) 豊かな潤いを願う
和衷協力(わちゅうきょうりょく) 心から協力し合い平和を願う
庶穂(しょすい) 甘庶の順調な生育を祈る
瑞雲慈雨(ずいうんじう) 恵みの雨をもたらす雲をよび、万物が豊かになることを祈る

巻踊りの『マキ』は、血族を中心としたグループを指す語で、
マキ踊りは血族の踊りとも言われる。
円陣形式から巻踊りと言う説もある。

マキ踊りの先頭は竹笹に旗をくくった標旗(しるしがた)で、
男童二人が持つ。

竹笹の旗に描かれる3個の丸印は
火の神、水の神、本尊(フンジィン)の意で神の象徴。
童のあとからは、白麻衣(シルチョーキン)に、
神サジとよばれる白頭巾に
くばの扇を持つ水ぬ主と呼ばれる4人の女性が続く。
神サジの扮装は、真乙姥御嶽と長崎御嶽の神司にだけ許されるもの。

手に持つクバの扇は神が降臨する神木の葉でつくられ、
心霊が宿るものである。続いて、世持、長老と続く。
ザイを持つ女性達は、老女の唄う「ふなー星ゆんた」にあわせ踊る。
ふなー星とは、スバル星座のことで、「くなー星」ともよばれ、
太陽暦法が使われる以前各村には星見石を設置して
農耕播種の目当てとなるスバル星を観測していた。

巻踊りの後は旗頭、太鼓などがあり、女達のガーリィ(乱舞)が行われる。
神を向かえるための鎮魂と祭祀空間の清浄のためである。


五穀の種子授けの儀では、
東方から、白眉白髪に白頭巾、左手に青い竹を持ち、
右手には月と星の描かれた黒の扇子を持つ神
サジヌアン又はサイレーが戸板にのり登場、
標旗とムヌダニ(五穀)を持つ童を従える。
西からは白麻衣(シルチョーキン)にクバ扇を持ち、
ひざまづいた姿勢の神司ウキィディヌアンが標旗と童を供にして登場。
激しいガーリの中を東西の戸板はゆっくりと進む。

真乙姥御嶽の前で両方の戸板が合わされ、
西の神司がうやうやしく合掌すると、神は扇子を閉じ、
五穀を神司に授受。
それが済むと、脱兎のごとく東西へ分かれる。

五穀には、稲、粟、麦、黍、豆であるが、
現在は、豆の代わりに甘藷がいれられている。



アヒャーマ綱は、宇根通事(ウネトウジ)が、琉球藩王へ遣いに行った際、
逆風にあい唐国に3ヶ月漂着した。
ようやく帰郷することができたが、留守宅で心配していた盲目の本妻と
第二婦人は真乙姥の霊所に毎日お参りし、
夫が無事に帰郷するよう二つの誓願をしていた。

一つは、通事が無事に帰郷したならば、
真乙姥のお墓を御嶽として尊信すること。
もう一つは、婦人の綱引をして感謝の意を表すこと。

夫が無事に帰郷することができたので、婦人は狂喜感激のあまりに、
ありあわせの綱をとって婦人綱を引いて「願解(グワンホドキ)」し、
墓も清掃して拝所として礼拝した。

なぜ、綱曳きなんだろう?綱は龍の化身ともいわれ、
水神、龍神への感謝を込めてといわれている。


日が沈む頃、新川の旗頭、矢頭が東に田頭が西に移動する。
松明がつけられると、祭り最大の見せ場、ツナヌミンが始まる。
東からは薙刀を持った東大将(あーるぬたいしょう)、
西からは鎌を持った西大将(いーるぬたいしょう)が
戸棚に乗ってゆっくりとあらわれ、
頭にはカニウッパ(貢納風呂敷)を被り、
サマシタ(クワガタ)を額につけ、顔はビンキャー(くまどり)をし、
相手をにらみ何度も見栄を切る。
ツナヌミンの始まりである。

ツナノミンは、『綱の輪』を指すといわれているが不明である。
牛若丸と弁慶と呼んだりもする。
二人の武将の振るう薙刀と鎌は、邪悪を払うものであり、
後に行われる綱曳きの露払い役であろう。


続いて行われる綱曳きは雄雌の綱を閂棒(カヌチ棒)をいれ東西に曳きあう。
西の綱は大川、新川、
東の綱は石垣、登野城が組となり閂棒を入れるのは公民館長である。
西が勝利すると世果報、東が勝つと凶年となるといわれている。

四カ字豊年祭には、台風などの自然災害、悪霊たちの魂を鎮める、
神を敬うなどの人々の切実なる願いがさまざまな形で込められ
演じられている。