蔵ぬぱな節

今回は「蔵ぬぱな節」を紹介します。この唄は別名「献上節」とも言われています。

その昔、琉球国王、尚穆王(しょうぼくおう、1739年~1794年)の世代に宮古と八重山における海岸から蔵元政庁へ通じる道路に対して歌一首を献上せよとの命令が下されました。

すると、宮古からは「石根ぬ道節(いしんにぬみちぶし)」が献上され、八重山からは「蔵ぬ花道節(うらぬぱなぶし)」が献上されました。

この歌は、石垣村の浦崎英儀(うらさき えいぎ)氏七世の祖で、黒島英任(くろしま えいにん)と言う音楽の大家によって作詞作曲されたものだと言い伝えられています。

英任は貞享二年(1685年)4月6日に生まれ、明和五年(1768年)12月17日に七十二歳の高齢で亡くなりました。彼は存命中の宝暦5年(1755年)に公物宰領の重任を仰せつけられ、公務を完了した上に、王命のこの歌を献上したところ、国王の賞賛を得たと言われています。 そして、賞状と賞品を御下賜された栄光に浴して帰国したと伝えられています。それでは、唄を見ていきます。

蔵ぬぱな節

no.
原歌
訳)
1.
蔵ぬぱなから
(ウラヌパナカラ)
はりぞーし
(ハリゾーシ)
嘉利吉ぬ道から
(カリユシヌミツィカラ)
はりぞーし
(ハリゾーシ)
蔵元の前の道(花道)から

何と綺麗な女性たちが通ることよ

おめでたい花道から

何と綺麗な女性たちが通ることよ
2.
誰々どぅつぃかいすぃ
(タルタルドゥツィカイスィ)
(囃子)同上
何々どぅうふぁらすぃ 
(ジリジリドゥウファラス)
(囃子)同上

どなた様をご案内しましょうか


何と何ををお通ししましょうか
3.
沖縄主どぅつかいすぃ
(ウクイナーシュドゥツィカイスィ)
(囃子)同上
主ぬ前どぅうふぁらすぃ
(ジリジリドゥウファラスィ)
(囃子)同上

首里からの高官をご案内します


高貴な御役人をお通しします
4.
我ん女頭 御供すぃ
(バンブナジィ ウトゥムスィ)
(囃子)同上
くり女童後から
(クリミヤラビアトゥカラ)
(囃子)同上

私たちの女頭がお供します


乙女たちは後からお供します

唄を詳細に解説していきます。先ずは歌詞の一番から。蔵(うら)とは、琉球王府の八重山統治の出先機関である蔵元政庁(くらもとせいちょう)のことです。何故、蔵(くら)を蔵(うら)と読んでいたのか、その語源は不明ですが、諸説があります。

津々浦々という言葉がありますが、あらゆるところまで支配するところいう意味から「ウラ」と通称で呼ばれていたとも言われています。また、米、粟、黍などの穂を「ウラ」と呼んでいたことから、穂は中心なので、八重山の政治の中心部を意味していたとも言われています。

蔵元は、現在の石垣市街地の登野城3番地から4番地あたりで、海邦銀行から元の八重山支庁(現在はわくわくスタンプ駐車場)、八重山博物館あたりまでの敷地内にありました。

「ぱな道」は「花道」のことです。高貴な人や役人が通る道を花道と言いました。今では、大相撲で力士たちが支度部屋から土俵まで歩く道を花道とも言ってます。

蔵元の前の道、現在で言えば、八重山博物館の裏通りで、八重山税務署前の通りにあたります。

琉球王府から命令を受けて、毎年八重山にやってくる三司官(国務大臣)や御検視官、それに在番たちは、今の登野城漁港の先辺りにあった美崎泊に錨を下ろした公用船「馬艦船(まーらんぶに)」から小伝馬船に乗り移って上陸しました。

その上陸地点の直ぐ傍にあったのが真泊嶽(まどぅまりおん、古くは美崎真泊とよばれていた)で、航海安全の神が祭られていました。

現在の場所で言えば、富川医院の南方、大濱信泉記念館の裏側
ありました。その真泊嶽から蔵元に至る約300m位の道を「蔵ぬぱな道」と称していました。

「嘉利吉の道から」ですが、「かりゆし」とは元々船を表す言葉から来ており、島に宝物や幸をもたらすもということから「めでたいこと」「縁起がいいこと」を表すようになりました。

ですから、琉球王府からの役人たちをお迎えするこを「おめでたいこと」であると歓迎の喜びを表現しているわけです。

囃子の「はりぞーし」ですが、「はり」と「ぞーし」に分けられます。「はり」は感嘆詞で「ああ、何と」などの意味です。「ぞーし」は「無蔵し(んぞーし)」の「無(ん)」が省略されて、「ぞーし」に変わったのだとする説があります。

img src="m_img/04madomarion.jpg" width="263" height="166"> 筆者もその説を支持します。「無蔵」は「愛しい人、愛しい女」と言う意味です。それ故、琉球王府から来た役人たちを出迎える女性たちが何と美しく愛しい女達なんだろう、と花道の沿道の見物人たちが見とれている様子を想像することができると思います。

 次に歌詞の二番を見てみます。「誰誰どぅつぃかいすぃ」ですが、八重山方言では「誰」のことを「たる」と言います。「誰ですか?」を「たるりゃ?」とか「たるどぅやろーりゃ?」などと言います。
「つぃかいすぃ」と言う言葉は、「遣わす」とか「ご案内する」と言う意味の言葉です。ですから、「誰と誰を御役人様方の案内役として遣わせましょうか?」と蔵元にお使いしている者達が思案している様子を窺い知ることができると思います。

 「何々どぅうふぁらすぃ」ですが、八重山方言では「何」のことは「のー」と言います。「何ですか?」は「のーりゃ?」になります。「何々(じりじり)」と言う表現は「どれとどれ」と言う意味で使われていると思われます。「どこ」は「ずま」と言いますし、「どれ」は「じぃり」と言ったりもします。
「どぅふぁらすぃ」は「お通しする」と言う意味です。ですから、「どんな物とどんな物をお通しして(お持ちして)、歓迎の品として差し出そうか思案している様子も見えます。

 歌詞の三番目を見てみます。「沖縄主どぅつぃかいすぃ」の「沖縄主」と言うのは、もちろん「琉球王府から派遣された役人のことであり、位の高い高官達」のことです。二番でもでましたが、「つぃかいすぃ」は「ご案内する」と言う意味です。
「主ぬ前どぅふぁらすぃ」は「主ぬ前」も前述の「沖縄主」を言い換えただけで、「御役人、高官達」をさす言葉です。ですから、「これから花道を王府から高官達をご案内いたします。そして、高貴な御役人たちをもお通しいたします。」と解釈できるのではないでしょうか? 

 歌詞の四番目を見てみます。「我ん女頭 御供すぃ」の「我ん(ばん)」は「私たちの」と言う意味ですが、「私、自分」のことを八重山方言では「ばん」「ばぬ」と言います。普通は「私たち」と言う場合は「ばんだー」とか「ばがだー」とか言います。「女頭(ぶなずぃ)」は、各村々の村番所に交代で奉公している女達の頭のことです。
「くり女童(みやらび)後から」の「くり」が筆者としては、まだ意味が取れていません。推測ですが、「くり」は「来る」という意味だと思います。読者の中に解る方がいれば、投稿願います。意味をまとめると、「私たち女頭(ぶなずぃ)がお供いたします。来る予定の乙女達はあとからお供します。」となるでしょう。

ここで琉球王府時代の八重山の統治機構を概略いたします。

八重山は、石垣間切、宮良間切、大浜間切の三つの行政区画に分割されていました。各間切に頭が一名(地元の人から選出)置かれ、蔵元で三頭合議制の統治をしていました。

各頭には蔵筆者四人と惣横目(行政監視官)が一人つきました。それらの更に上の監督役として琉球王府から任命されたのが在番方と言われる首脳部です。首脳部は在番一人、在番筆者二人から成っていました。

また、各村々は与人(村長)、目差(補佐役)、耕作筆者たちが村番所に常駐し村の統治にあたりました。

大きな村では、与人、目差の他に筆者二人、仮筆者二人の六人の役人に、筑(ちぃく)と呼ばれる男小使い一人に、女頭(ぶなじぃ)五人、アニシィソーマ二人、併せて七人の婦女子を置き一年交代で奉公させていました。

女頭の長は四十歳位の婦人一人に、中女頭は三十歳位の女二人、小女頭は二十歳位の女二人、アニシィソーマと呼ばれる十七、八歳位の少女二人を置いて御用布をはじめ小間使いの雑用に当たらせていました。

琉球王府からの役人たちをお迎えする歓迎の唄が「蔵ぬぱな節」ですが、この唄の情景を思い浮かべることにより、村々の女頭や乙女たちまで駆り出されて総出でお迎えした、琉球国王の支配体制に完全に組み込まれていた当時の八重山の風景の1コマが想像できるのではないでしょうか?