月夜浜節

今回は「月夜浜節」を紹介します。この歌は、松茂姓七世、黒島当応(1723年~1790年)が石垣島の平得村の与人(村長に当たる役人)を努めている時に、新本家の祖が歌っていた「月夜浜ユンタ」を改作し、 琉球国王のところへ行った際に、沖縄本島で歌われていた臼太鼓の古謡を研究し、それに自作の詩を加味して作ったものだと言われています。

彼がこの歌を八重山歌集として楽典(工工四)に入れたため、盛んに歌われ、元歌の「月夜浜ユンタ」は自然消滅していきました。

では、歌を見ていきます。

月夜浜節

no.
原歌
訳)
1.
月夜浜だぎぬヨウ
(ツィクヤパマダギヌ ヤウ)

岸ぬ浦ぬ木綿ヒヤスリ
(キシヌラヌムミン ヒヤスリ)

木綿花 作てぃ ヤウ
(ムミンパナ ツィクティ ヤウ)

木綿かし かきら
(ムミンカシ カキラ)
月夜の浜のように真っ白く


岸の浦の木綿畑は


木綿花を作って


木綿のカセ(経糸)をかけよう
2.
繰り返いし 返いし
(クリカイシ カイシ)

指はつぃき 見あぎりば 
(ユビハツィキ ミアギリバ)

筋持つぃぬ 美らさ
(スィズィムツィヌ チュラサ)

読美らさあむぬ
(ユミチュラサアムヌ)

吹かば飛ぶ
(フカバ トウブ)

手巾しゆてぃ
(ティサジシユティ)

待ちゅら ヨンナ
繰り返し 返し


弓絃で解してみたら


糸筋も美しく


桝糸もよく揃って


吹けば飛ぶような


手巾を織って


里の来るのを待ちましょう

上述の訳を見れば、分かると思いますが、この「月夜浜節」は、月夜の浜の様子を歌ったものではありません。綿花畑の綿花の開花が豊熟して、畑一面に真っ白くなっている状態が、あたかも月夜に海岸の白砂を見るようであるという意味で歌われた歌です。

歌詞の一番にある「岸ぬ浦」とは、石垣市登野城から伊原間方向へ約二十四キロ金武岳の南方の肥沃な平野のことを示しています。別名、「南の浦(ハイノウラ)」とも言います。海岸に断崖があるので、「岸」と言われており、これに続いている平野であるから「岸ぬ浦(岸の浦)」と称されていたようです。

木綿は、木綿布を作る綿のことで、人頭税時代には、各部落ごとに一箇所で共同栽培していました。平得村は、岸の浦で綿花栽培を共同で行っていたようです。綿花の共同栽培は、婦女子に課せられた人頭税である「御用布」を織る原料ため重要な仕事でした。

「指はつぃき」は、綿花を採って来て乾燥させ、木製の大弓の絃を棒ではじいて解し、つむぐことを言います。

「吹かば飛ぶ手巾」は、吹いたら飛ぶくらいの極細上の手巾のことで、恋人に捧げるために心をこめて織って待つ思いが想像できます。

平得村の村中の美人たちがユンタ・ジラバを歌いながら、綿花を採集している光景を詠んだ歌が「月夜浜ユンタ」であり、その歌を更にアレンジして格調高いものにしたのが「月夜浜節」であると理解できるでしょう。