桃里節
今回は「桃里節」を取り上げます。この歌は、とてもテンポがいい曲で、聞いていて楽しくなり、踊りたくなります。詠み人は誰なのか知られていません。
- no.
- 原歌
- 訳)
- 1.
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桃里てぃる島や
(トウザトウティルスマヤ)
果報ぬ島やりば
(カフヌスマヤリバ)
空岳ば前なし うやき繁昌
(カラダギバマイナシ ウヤキハンジョウ)
ヨー サティ ヨー ヒー ヨーンナ(囃子) - 桃里という村は
果報の島であるので
空岳を前にして 富貴繁昌である
- 2.
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空岳に登ぶてぃ
(カラダギニヌブティ)
押し下し見りば
(ウシクダシミリバ)
稲粟ぬなをり 弥勒世果報
(イニアワヌナヲリ ミルクユガフ)
(囃子) -
空岳に登って
(田畑の作物を)見下ろすと
稲や粟の稔りは素晴らしく
弥勒の神の世ようである
- 3.
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赤ゆらぬ花や
(アカユラヌハナヤ)
二、三月どぅ咲ちゅる
(ニサングワチド サアチュル)
我がけーらぬ花や
(バガケラーヌハナヤ)
いつぃん咲ちゅさ
(イチツン サチュサ)
(囃子)
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でいごの花は
二、三月頃に咲くが
青春の花は
四季を通して咲いている - 4.
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花ぬ色美らさ
(ハナヌイルチュラサ)
桜花でむぬ
(サクラバナデムヌ)
女童ぬ美らさ我島でむぬ
(ミヤラビヌチュラサ バガスマデムヌ) -
花の色で美しいのは
桜の花の色であるが
乙女が美しいのは
我が村、桃里村の娘たちだ
桃里村は、石垣島の北東部にあり、市街地から18kmほど離れた所にあった村です。土地が肥沃であった為、蔵元政庁は、享保17年(1732)に880人で村を創建しました。しかし、明和の大津波(1771)で、200人以上が溺死し、また、過酷な人頭税とマラリアの為に人が減っていき、大正3年(1914)についに183年の歴史で廃村になってしまいました。
この「桃里節」は、悲惨な歴史を辿った桃里村ですが、一時的にでも繁栄していた時期があり、その時に歌われた歌です。歌の中の「空岳」は、桃里村の西南方向にある山です。樹木が一本も生えない禿山である為にその名がつけられました。そこに登ると村の田畑が一望でき、収穫時期には黄金色の稲穂がゆれて、素晴らしい眺めだったに違いありません。村人たちは、自分の村が誇らしく思えたのでしょうね、きっと。
廃村となった1914年から39年後の昭和28年(1953年)に琉球政府が沖縄本島の大宜味村から135名の開拓移民を募り、大里村と改名し桃里村は復活しています。
この歌を歌うときは、島人たちは「桃里村の繁栄」を自分たちの住んでいる村の繁栄に置き換えて、それがいつまでも続きますようにとの願いを込めて歌ってきたのだと思われます。